2009年7月31日金曜日

Nomad Working

軽く夏休み気分の休暇を取ったら、東京(Tokyo)は一気に気温が下がり、いたって過ごしやすい曇り空になった。

東京駅のオアゾの丸善の洋書部にいったら、ようやくChris AndersonのFreeが入荷されていた。ハードカバーかと思いながら手にとって、他の本を眺めていたら、ちょっと離れた場所に、ペーパーバックが置いてあった。簡便してくれよと、当然そっちにした。

クリス・アンダーソンは、MP3やら、その他のEブック、Kindleなどを通じて、Freeで、新著を配信しようとしているようだが、日本でそれを手に入れるのはなかなか難しい感じだ。

妨害しているのが、いったい誰なのかを技術的に明らかにする気合いも、この暑さではなくなってしまう。

ただ、PCは、雑誌の長めの記事を読んだり、翻訳したり、原稿を書いたりするには最適だが、このくらいの長さの本を読むには、まだインタフェース上無理だ。

佐々木俊尚(Toshinao Sasaki)さんの「仕事をするにはオフィスはいらない」という新書を読んでいると、独立のジャーナリストである佐々木さんの徹底したノマドビジネススタイルに感心した。

実際のオフィスを持ってはいるが、心理的には、そのオフィスに縛られているわけでもないので、ノマド的なビジネススタイルにかなり近いところにいるので、この本の中で書かれているLet's NoteとEモバと携帯と本を1冊持って、気軽にどこでも行くというスタイルに違和感はなかった。

ただ、佐々木さんが、Google Readerを、自宅のPC,ノートPC,iPhoneで連続的に使い分けていく徹底したところには、すごいなあと思う反面、僕はここまで徹底はできないなと思った。

Image by somefool :: ɹǝqɐGoogle iPhone web appsɯ ʍǝɥʇʇɐɯ via Flickr



特に、Google ReaderをiPhoneで読めば、移動などの時間も、記事を読み続けられるというところは、僕的じゃない。

実際、地下鉄では、本。タクシーではiPodと棲み分けしているので、ちょっと、iPhoneで記事やメールを読み続けるという時間配分はできないし、したくない。

やはり、本を読むというスタイルが、知的作業の30%以上は占めるようにしたい。

家に戻って、Velvetundergournd and Nicoのあのウォーホールバナナのアルバムや、Lou ReedのNew YorkをiPodで聴きながら、東京の曇り空を眺めている。

真夏には、曇り空もなかなかHealingだ。

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Damn Yankees

今週のニューヨークタイムスの日曜版で、Toureというライターが3冊のヤンキーズ本を取り上げて、このチームの変貌と、ステロイド禍について語っている。

「くたばれヤンキース(Damn Yankees)」

Cover of Cover of The Yankee Years





A-ROD
By Selena Roberts(Harper/HarperCollins Publishers. )

THE YANKEE YEARS
By Joe Torre and Tom Verducci(Doubleday.)

AMERICAN ICON By Teri Thompson, Nathaniel Vinton,
Michael O’Keeffe and Christian Red (Alfred A. Knopf.)

http://www.nytimes.com/2009/07/26/books/review/Toure-t.html?ref=review&pagewanted=print


なぜヤンキーファンはいまだにヤンキースが好きなのかとToureは書き始めている。

ステロイドスキャンダルの中心は、みなヤンキーズのプレイヤーたちじゃないか。
ジェイソン・ジアンビ、アンディ・ペティット、ロジャー・クレメンス、アレックス・ロドリゲス。

総工費15億ドルといわれる新球場に、ニューヨーク市の資金をつぎ込ませているにもかかわらず、道楽息子がレアものスポーツカーのコレクションを積み上げるかのように、高いフリーエージェントを金にまかせてかき集めているヤンキースというのはどうなんだ。


昨年のシーズンオフに、この球団は3選手に4億2300万ドルを投じて、同時に、ニューヨーク市の免税債で10億ドル以上を調達し、納税者に負担をかけた、とToureは批判する。

チケットやオンラインコンテンツの売上によって他球団より財政的に恵まれているはずの、ヤンキースがなぜ公的資金をいまだに必要とするのか。


ヤンキースには二つの特性があると彼は主張する。こういった金まみれの部分を代表するのが、アレックス・ロドリゲスだ。ステロイドまみれのキャリアにもかかわらず、球界史上最高金額の契約を締結し、ヤンキースのワールドシリーズ制覇に一切貢献しない男。

A-Rodはたしかに、レジー・ジャクソンやベーブ・ルースの後継と称されてしかるべき長打力、人気、とびっきりの個性を持ち合わせている。

ただ、ミスターオクトーバーや、バンビーノとは決定的な違いがある。レジーもベイブも、ここ一番の大勝負に滅法強かった。これに比べるとロドリゲスは、公式戦での好機になんども不発だった。いわゆるclutch hitterではない。


ニューヨーカーが自らの分身のように愛するヤンキースとは、もう一つの顔の方だ。
デレク・ジーターに代表される、ヤンキース。だからこそ、ファンは、細い縦じまのユニフォームに誇りを感じるのだ。

ジーターはヤンキース生え抜きで、4度のワールドシリーズでの優勝経験を持ち、ガッツのある立派な選手として球界の誰からも尊敬されている。


バーニー・ウィリアムズ、サーマン・マンソン、ジョー・ディマジオ、Whitey Ford, ルー・ゲーリックなどのBronx Bombersの古き伝統にジーターの名前も連なっているのだ。こういった選手たちがいるからこそ、ニューヨークのファンたちは、自分たちの自我の延長としてヤンキーズを見なすようになるのだ。すなわちプレッシャーの中でもタフであり続ける男たちの集団だ。多くのニューヨーカーたちは、自分たちをそのイメージに重ねている。

ロドリゲス的な部分というのは、ニューヨーク以外の人々が、この街に対して感じる思いを反映しているのだ。実態以上に膨れ上がったイメージ。金融的に膨張し、常に論議の的となっている街。残念なことに、今のヤンキースではA-Rod的な部分が支配的になっている。

2009年のヤンキースにはむらがある。

時々は素晴らしい試合をするが、結局アリーグ東部地区で、前半はほとんど、にっくきレッドソックスの後塵を拝していた。直接対決で、ヤンキースはレッドソックスに対して0勝8敗というありさまだ。
ヤンキースのロドリゲス/ジーター的分裂は、ムラのある野球に繋がっているが、本の題材としてはこれほど面白いものはないと著者は言う。


特に金にまかせてかき集めた選手たちに対するジーターに代表される職人集団が持つ拒否反応などは、滑稽を超えて、物哀しい。

特にニューヨークヤンキースの黄金時代を率いたトーレ監督のこんな言葉は、深い。

私はヤンキースが90年代後半に、個人的エゴにとらわれない、仕事師的選手たちの集団から、自己中心的で、自分の成績だけに執着するスター選手の寄せ集めへと変貌するのを目撃してきた、とトーレは言う。2002年のシーズンを彼は以下のように回想している。「自己中心的ということだけが問題だったのではない。我々は、新しい流れのためにみなスポイルされていった。多くのプレイヤーが、チームのために何かをやり遂げるのではなく、自己満足だけを追及するようになった。多くの選手たちが、泥にまみれて何かを成し遂げるのではなく、自分がどのように見えるかだけを気にするようになっていったのだ。

Hideki Matsui of the New York Yankees at the p...Image via Wikipedia


(以上)


松井秀喜(Hideki Matsui)が固執するピンストライプの伝統とは、トーレやジーターに具現されているチームのために身を粉にする職人たちの発するオーラなのだ。ヤンキースファンたちが、彼を心から愛したのは、そのピンストライプの伝統と精神をまさにこの日本からきた選手が身にまとっていたからのだろう。

僕には忘れられないシーンがある。手頸を骨折し、4か月のリハビリから回復した松井秀喜の初打席に、球場中のファンから鳴り響いた拍手の波、渦だ。松井はちょっととまどうように球場を見まわしてから、ヘルメットを上げて、歓声にこたえた。その日、彼は4打数4安打。最後の安打を打った時に、ベンチで、あきれたよというような表情で笑うジーターの顔がなんどもニュースで流された。気持ちでプレイする松井という選手の真骨頂のような日だった。

ステロイド漬けの巨人たちの、デフォルメされたコロシアム的戦闘は、コンピュータグラフィックに慣らされたファンにはたまらないのかもしれない。ただ、こういった方向性は、野球選手たちの貴重な生命だけではなく、ヤンキースに代表される多くのニュアンスに満ちた野球の神話性を間違いなく奪っている。
ホームランを量産し、個人成績は上げるが、チャンスには弱いA-ロッドとは対極にいるのが、松井秀喜なのだ。身を粉にしてチームのために戦い、しかも、ここ一番の大勝負に強いクラッチヒッター。松井秀喜はまさに、ピンストライプの伝統の真ん中にいる選手なのだろう。


当然、神々の戦いは厳しい。怪我、DHに限定されるというような事情を考えてくれるほど、メジャーリーグの世界もファンも甘くはない。ただ、松井秀喜がヤンキースのユニフォームを脱ぐときに、松井が失うものよりも、ヤンキースが失うものの方がはるかに大きいはずだ。

その時、ぼくは、懐かしい映画のあのタイトルを心から口にするだろう。
Damn Yankees. くたばれヤンキース

Damn Yankees (film)Image via Wikipedia



でもその時は、かなりさみしい気分になるはずなのだ。
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北京のオルタナティブロック

北京の大学生たちを中心に、急速に、パンク、ポストパンクのようなアンダーグラウンドシーンへの人気が高まっているらしい。

その中心にいるのは、23歳の、華奢な青年だ。

名前はZhang Shouwang、彼の率いるバンドはCarsick Carsだ。

ユーチューブで、彼の、演奏を聴くことができる。
http://www.youtube.com/watch?v=Pz6M20GN8Nw

共産党中央本部の別名でもある「中南海」というのが、これまでのところの彼の大ヒット曲である。ただ共産党讃歌を歌っているわけではない。中南海というのは中国の煙草のブランドで、彼は煙草の歌を歌っている。

「僕が吸うのは中南海だけ。中南海なしには死んじまう。僕の中南海を吸ったのは誰?」
ウォールストリートジャーナルのJanis Fooという記者が、Rocking Beijingというタイトルで、北京のアンダーグラウンドシーンを描きながら、中国の文革チルドレンのちょっと斜に構えた心象風景を面白く描いている。
http://online.wsj.com/article/SB124831869681774897.html

活動を始めて4年目のZhang ShouwangがリーダーであるCarsick Carsは今や、北京のアンダーグラウンドミュージックシーンの押しも押されもせぬ中心だ。しかも、すでに、Sonic YouthやGlenn Brancaなどと一緒に世界ツアーを行っている。ニューヨーカー誌のアート欄の批評家であるAlex Rossらによって、激賞されるまでになっている。

彼らが満員の観衆に向けて演奏している北京のD-22というクラブは、3年前にアメリカ人のMichael Pettisによって創設された。今や、このクラブは北京のクラブシーン、カウンターカルチャーの総本山とも言うべき場所になった。北京のカウンターカルチャーは、ありきたいりの音楽や、Mandopopと呼ばれる、商業主義的な音楽に飽き足らない北京のエリート大学生たちの間で急速に広がっている。
ただ、中国の音楽シーンは、その経済ほど劇的な成長を遂げているわけではない。アンダーグラウンドシーンで成功しているといっても、バイトなしで食えているミュージシャンはほんの一握りだ。ファン層も、まだそれほど大きくはなく、北京のエリート学生たち中心だ。ただ、こういった少数の若者が、明日の流行を作り出していくのは間違いない。21世紀が、経済に限らず、音楽でも、中国の世紀となる可能性もある。

Carsick Carsのようなオルタナティブ系のバンドを演奏させるようなクラブは4年前にはほとんどなかった。ただ最近のCarsick Carsのスケジュールは殺人的である。ボーカル兼リードギターのZhang, ドラムのLi Qing、ベースのLi Weiseは、超過密日程をこなしている。D-22でのライブは、欧米ツアー、中国23都市でのツアーの合間を縫って行われている。

2007年に1枚目のアルバムCarsick Carsを発売した。今年の6月には2枚目の”You Can Listen, You Can Talk”がMaybe Marsレーベルから発売された。デビューアルバムよりは、アグレッシブさは薄れたが、かなり洗練されてきている。ポストパンクのThe Pixiesや、グランジのNirvanaの影響が大きい。時に、Zhangの歌い方は Velvet Undergroundsの伝説のカリスマLou Reedを思わせる。
Carsick Carsの登場によって、北京のアンダーグラウンドシーンが一気に活発化した。

D-22やMaybe Marsのオーナーでもある、北京大学の金融専門の教授のMichael Pettisが最近のカウンターカルチャー事情を語っている。

5年前に、自分が教えている学生たちの中で、カウンターカルチャーに関心をもつものなどいなかった。でも、今は、4分の1の学生がクラブにいったことがあり、5から10%が、音楽への知識も豊富で、その趣味も洗練されてきている。

この状況はさらに加速すると、彼は付け加えた。

Pettisは、現在の中国を60年代のアメリカと比べている。60年代のアメリカは、ボブ・ディランや、ジミ・ヘンドリックスをうみだした。ただ北京のアンダーグラウンド世代には、ウッドストック世代が共有していた政治的、音楽的団結心のようなものは存在しない。20年前の天安門事件の革命歌 ”Nothing to My Name“を歌ったCui Jianのような存在はいない。

Zhangは、僕ら若い世代は政治のことには関心がないと、ためらいがちではあるが、流暢な英語でインタビューに答えた。僕らが大切に思っているのは、自分の音楽とまわりの友人たちだけだ。北京のロックシーンの中心人物は、革命ではなく、日常生活を歌うのだ。

Carsick Carsの最初のヒット曲で、北京のロックシーンの聖歌となったのは「中南海」(Zhong Nan Hai)だ。中南海は、共産党本部のことも意味するが、煙草のブランドでもある。Zhangは、これは煙草の歌だという。

Zhangが「僕が吸うのは中南海だけ。中南海なしには死んじまう。僕の中南海を吸ったのは誰だ?」と歌うと、D-22に集まった観衆たちは、いっせいに煙草をステージに投げつけるのだ。

この歌詞に代表されるような、ちょっと虚無的な態度は、60年代のフラワー世代というよりは80年代のパンクに似ているようだ。このニヒリズムは、伝統的な音楽体系や、商業的成功への彼の無関心さにもあらわれている。どうせ金儲けなどできないんだから、新しい音楽やサウンドを作り出せばいいんだ。
金儲けには関心がない、Zhangが北京では数少ない、バイトなしでも暮らしていけるミュージシャンなのは少々皮肉だ。彼は、Beijing Institute of Technologyの光電子工学専攻の学生だった。去年、大学を辞めた。多分戻ることはないだろう。

北京の若いアーチストたちを糾合するような政治的テーマはない。この世代の特徴を一言で言えば、親たちの世代の富への執着と上昇志向への愛憎なかばする感情だろう。この国に今存在する世代間のギャップは60年代のアメリカに似ている。

1966年から10年間続いた文化大革命という不安の時代を生き抜く過程で、彼らの親たちは、経済的成功に執着するようになった。さらに80年代以降の世代は、中国の一人っ子政策の中で、生まれたので、親たちから保護され、精神的にもかなり安定している世代だと北京のミュージシャン兼批評家のYan Junは言う。

Zhangは言う。自分たちは、これまで教え込まれてきたことが、本当に正しかったのかということに疑問を持つようになっている。社会主義、資本主義、リッチになるということ、愛国心、そして日本人を憎むということなど、すべてだ。こういう懐疑が、新しい社会を作ろうという意欲につながるわけではない。僕は政治家でもビジネスマンでもない。自分にとって大切なことを自由にやりたいだけ、それだけなのだと、彼は言う。

既存のポップへの否定は、過去30年間の開放政策の結果、中国の文化を覆い尽くしている商業主義への嫌悪から派生してきている。だから彼らはロックを選んでいるのだ。
北京のアンダーグラウンドミュージックは、音楽の伝統の欠落という、空白のもたらす自由さと広く材料を求める折衷主義という特質を持っている。ただ彼らのインスピレーションの源泉は、未だに、西洋音楽だ。

Steve ReichSteve Reich via last.fm



Zhangは、Steve Reich, Philip Glassなどのミニマリストや、60年代の伝説のバンドVelvet Undergroundからの影響が強い。Carsick Carsが切り開いた土壌の上で、若いミュージシャンは中国的なものからもインスピレーションを得るようになってきている。
北京は、まだニューヨークでもベルリンでもない。ただその文化的影響はどんどん拡大してきている。20年後、歴史家は、彼ら若者たちが切り開いたものが何であったのかを語ることになるはずだ。(以上)

北京のアンダーグラウンドシーンを、アメリカの新聞で知り、ユーチューブでライブを見て、コメントを日本語で書く。なんて時代だろう。
近所のファミリーマートに寄ると、レジの近くに、なんと中南海の煙草が積まれていた。 なんて時代だ

2009年7月30日木曜日

中国ロックはゴミCDから生まれた

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Carsick Carsの中南海というノイズのようなリフレインがやけに耳について仕方がない。フジロックに参加する、Sonic Youthについてこないんだろうか。

もう少し知りたいという余韻から、検索していたら、アンディ・ベータのインタビューが見つかった。これが、また、中国のロック創世記が垣間見られて、面白い。

http://andybetablog.blogspot.com/2008/08/carsick-cars-interview.html

生まれたのはどこ?

1986年に北京で生まれました。両親ともに北京の出身です。しかし私の父親は、実際には中国の北東部の東北(Dongbei)出身です。私の祖父は文革前には、教授で、かなり有名な知識人でした。文化大革命の時に、彼は北京を離れ、私の父親が生まれた東北部の小さな町で生活することを強制されました。文化大革命が1970年代の後半に終わってようやく北京へと戻ることを許され、私の父親はそこで母親と出会いました。

君にとっての最初のアメリカ/西洋文化は何だった?

小さな頃は、テレビを通じてアメリカ文化のことを知ったんだと思います。アメリカ文化について本当に知って、大好きになった最初のものは、プロレスでした。いまでも僕はプロレスが大好きです。実際、Jeff Hardyの大ファンで、ずっとJeff HardyのTシャツを手に入れようとしてきました。残念ながら今のところ手に入っていません。音楽に関して言えば、15か16歳のころに、マイケル・ジャクソンを聞いたのが最初の記憶です。

最近はそれほど聴かなくなったけれど、今でも彼のファンです。そのあと、NirvanaやSmashing Pumpkinsを聴くようになりました。

理由は勉強もしないで悪さばかりしていた高校の友達の一人が、彼らのことを教えてくれたからです。自分はどっちかといえば、良い生徒の部類でしたが、この悪友はとてもクールな奴だったので、彼のおすすめのバンドを聴き始めることになったのです。これが僕がロックミュージックを好きになったきっかけです。

アメリカのアーチストも好きでした。

17歳の時に、アンダーグラウンド雑誌で、Andy Warholの記事を読みました。そして僕は、彼のことがとても気になるようになりました。そしてアートストアで、彼の写真などを探すようになりました。彼のバナナのデザインつきのVelvet UndergroundのTシャツを見つけ、買いました。

実際、このTシャツがMichael (Petits D-22のオーナー)との出会いのきっかけになったのです。彼との出会いをきっかえに音楽に真剣に取り組むようになりました。

僕が、このTシャツを着て、后海(Houhai)の公園を散歩していると、一人の見知らぬ外国人が僕のTシャツを指差して、自分もVelvet Undergroundが大好きだと言ったのです。

僕が、このバンドのことは知らないというと、彼は、すぐにCDショップに行くべきだと言いました。そしてすぐに彼らのCDを手に入れました。家に帰ってCDを聞いたとたん、僕はVelvet Undergroundに夢中になりました。それがミュージシャンになろうと決心したきっかけです。その後、Michaelが、Suicide, Glenn Branca, Sonic Youth, John Adams, DNA、Steve Reichなどの他の多くの音楽を聞かせてくれるようになりました。

中国で廃棄用海外CD経由でアメリカの音楽をどうやって見つけたのかを教えてくれないか。

初めのころは、それ以外に、海外のCDを手に入れる方法がなかったんです。米国のメーカーは作りすぎのCDを大量に捨てていたのです。廃棄する時に最初はCDに穴をあけたりしていました。

廃棄用の処理もかなり大雑把だったので、聞けないものもありましたが、実は、ほとんどの曲を聞くことができたんです。中国では、大量にこういった廃棄用CDを購入して、北京や広東や上海やその他の都市の小さな音楽店で販売する会社がありました。

音楽ショップに箱一杯の廃棄用CDが入荷されると、近所の音楽好きが集まって、その中から自分の気に入ったものを必死で探しました。一枚4、5人民元と格安だったし、良いCDは少なかったので、早い者勝ちだったのです。

はじめてこういうショップにいったのは17歳の時でした。隣の少年の手が、切れたCDのせいで血だらけだったのを覚えています。はじめはきちがい沙汰だと思いましたが、結局は僕も同じことをしていました。音楽が本当に好きな人はみな同じだったのです。こうして後にミュージシャンや作家やアーチストになる人たちと多く知り合いました。

こんなCDでどんな曲を聴いたの?

ほとんどはごみで、ひどい代物でした。内容が何かわからなくても、カバーがクールだと買ったりしていました。Ramonesの3枚組CDセットを買ったことがあります。このバンドを聞いたことなどありませんでしたが、カバーが面白かったのです。聴いてみると内容もかなりクールで、それ以来、Ramonesのファンになりました。この方法でWhite Stripesとも出会いました。カバーがいかしていたのです。以前は聴いたこともなかった伝統的なインド音楽の素晴らしいセットも買いました。これは今でも大好きです。

その時代の音楽環境についてどう思う?

多くのCDは今考えるとゴミだったけれど、中国では聞いたことのないような変わった音楽をたくさん聞くことは素晴らしい体験でした。当時、僕たちがいつも聴いていたのは、ラジオやテレビから流れる、香港や台湾のひどいポップスや、大陸でのコピー音楽や、愛国的な音楽や古臭い音楽ばかりでした。西洋の音楽では、Kenny Gやカーペンターズやクラシック音楽を簡単な形に編曲したようなものだけ。

映画のタイタニックが封切りられた後Celine Dionが中国でもっとも人気のある外国人シンガーになりました。どこへ行っても彼女の歌が流れるようになりました。こんな環境なので、そのCDショップに通うようになる前は、音楽があまり好きじゃありませんでした。馬鹿馬鹿しいと感じていたのです。

当時の中国のロック音楽はどんな感じでした?

17、18歳になった時に、クラブへ通い始めました。当時、高校に通っていて、大学受験の準備をしていたし、両親が厳しかったので、これは簡単ではありませんでした。大学に入ると、クラブに通うのは簡単になりました。

最初に出遭ったバンドのすべてがクールに感じました。犯罪者や問題児のように見える人々と一緒に小さなクラブでロックンロールのライブを聴くのは、ちょっと怖いところもありましたが、音楽がエキサイティングだったので、僕は演奏しているミュージシャンが好きになり、彼らのところによく出入りするようになりました。でも、当時の僕はシャイ過ぎました。

今になると、当時のこういったバンドはすべてアメリカやイギリスのバンドをコピーしていただけだということがわかったのですが、当時は、それを聴くだけでも凄い体験でした。1,2年後に、僕は、3つか4つ良いバンドがあることに気づきました。Hang on the Box, Joyside, PK 14 やReTROSです。それ以外のバンドのほとんどは単なるコピーでした。

また多くのヘビーメタルやデスメタルバンド、古いパンクや、新しいパンクなどもいました。多くのオリジナルなバンドが誕生してミュージックシーンが良くなってきたのは、2004年や2005年になって突然のことだと思います。しかし同時はそんなことには気づきもしませんでした。とにかくすべてがクールで、どんなライブにでも駆けつけたものでした。
(以上)

中国では、歴史が動いている。それが幸福だけでなく、多くの不幸や悪運を招き寄せているかもしれない。しかし、その中にいる人は、必ず、歴史や社会変動の律動を感じているはずだ。

中国のロッカーシーンの中心は、一人っ子政策の中で過保護に育てられたエリート大学生たちだという。彼らは、iPhoneの試作機を盗んだ嫌疑で、警備担当に罵倒され、殴られ、寮から飛び降りて自殺した、地方出身の成り上がりの青年ではない。

中国には、そういった凄まじいギャップが逆巻いている。

Carsick Carsのボーカルの、政治や権力というものに対して、アイロニー的距離を保ちながら、自分の世界を守ろうとする姿は、日本の自閉的な世界に類似しているかのように見える。

しかし、彼らは、同じ国土の中に、大量な矛盾を内包していることを、自覚している。そしてその上に乗っかった自分たちの矛盾した安定に、無意識の負債感を持っているはずだ。

だからこそ、中国のロックは、これから、触れれば血がほとばしるような鮮烈さを持っていく可能性が大なのかも知れない。

でも、この牧歌的な中国のロック創世記は、やはり、僕たちにもノスタルジーを誘う。

彼らもまた、我が内なるアメリカを抱えて生きてくのだ。
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