2010年6月7日月曜日

浜口内閣前の歴代内閣はなぜ金解禁に取り組まなかったのか

城山三郎「男子の本懐」(新潮文庫)P41

国の内外からそれほど求められているというのに、歴代内閣は、なぜ金解禁に取り組まなかったのか。

ひとつには、準備の問題がある。

解禁そのものは、大蔵省令一本でできるが、為替相場が低落したままの状態で解禁すれば、法定相場との間に大きな差が出るため、たとえば、手持ちのある輸入業者は大打撃を受けるし、輸出業者は外貨建て値の急騰で輸出ができなくなる。一方、為替差益を狙っての投機も横行する。

このため、解禁に先立って、為替相場をできるだけ回復させ、法定レートに近づけておかねばならず、財政を中心に強力な緊縮政策を行って、国内物価を引下げておく必要がある。

また、一時的に金の流出が予想されるので、金準備をふやし、外国からの信用供与もとりつけておかねばならない。

これら諸条件の整備と、解禁のタイミング決定は、浜口のいうように、尋常一様な財政家の手に負える仕事ではなかった。

次に首尾よく金解禁が実現されたとしても入超続きの日本では、金の流出が続き、通貨は収縮せざるを得ない。当然のことだが、不景気がさらに進行することになる。大戦景気にならされ、膨張したままの企業や家計が耐乏生活を強いられるわけで、水ぶくれした体質が改善され、国際競争力がつくまでは、ある程度の時間がかかる。

すでに長い経済の低迷があり、金解禁を望む多くのひとびとは、即効薬を期待している。だが、金解禁は即効薬ではなく、苦しみながら、にがい薬を飲み続けることである。焦立ちのあまり局面の転換だけを求めていたひとびとをはじめとして、民衆の多くが辛抱しきれなくなる。健康体になるために、なおしばらくの不景気が必要だ、という理屈も通らなくなり、やがて為政者をうらむようになる。

政治家の売り物となるのは、常に好景気である。あと先を考えず、景気だけをばらまくのがいい。民衆の多くは、国を憂えるよりも、目先の不景気をもたらしたひとを憎む。古来、「デフレ政策を行って、命を全うした政治家は居ない」といわれるほどである。容易ならぬ覚悟が必要であった。

それに、軍部および右翼筋からの反発も予想された。

緊縮財政では、まず焦点となるのが、陸海軍費の節約である。すでに陸軍においては師団の削減が行われており、かなりの不満が出ている。

海軍についても、先のワシントン会議での主力艦の削減に続いて、今回はロンドン会議で、補助艦艇の削減をとりきめる。こうした世界的な軍縮の流れは、英米優位の支配体制を許すものだとして、一部には強い反対がある。

だが、軍縮は推進しなければならない。それは、金解禁への重要な前提でもある。そして、金本位制への復帰によって軍部の膨張を許さぬ構造を作り上げようー浜口たちのそうした構想を、軍や右翼関係者が見逃すとも思えない。彼等が単独で、あるいは、不景気をうらむ民衆にまぎれて襲いかかってくることも、当然、予想されなければならなかった。

金解禁断行は、文字通り、進んで「行路難を背負う」ことであった。「君国のため命を捧げよう」という男二人のひそかな盟約、決して絵空事ではなかった。

井上準之助が金解禁にこだわったのはなぜか

城山三郎「男子の本懐」(新潮文庫) P37
なぜ、それほどに金解禁にこだわるのか。

金解禁とは、金の輸出禁止措置を解除し、金の国外流出を許す、ということである。

もともと世界各国とも、金本位制をとり、金の自由な動きを認めていたが、第一次大戦の勃発により、経済がかつてない混乱に陥った際、先行きの不安に備え、各国はとりあえず金を自国内に温存しようとして、輸出禁止を行った。

日本も、1917年(大正六年)九月、寺内内閣のとき、大蔵省令によって、金輸出を禁止した。非常事態に際しての非常事態であった。

金本位制度の下では、各国とも、紙幣は兌換券であり、中央銀行でいつでも表示の金額に代えることができるし、その金額の金含有量によって各国間の交換比率(為替レート)が法定化される。

ある国で輸出超過が続けば、決済代金として、外国から金が流れこむ。その結果、その国の金の保有量がふえ、これに比例して自動的に通貨が増発される。

このため、今度は、国内物価が騰貴するようになり、輸出は前ほど伸びなくなり逆に外国品の輸入がふえて、輸出入のバランスが回復する。

逆に、入朝続きで、国際収支が赤字のときは、その支払いのため、金が海外へ出て行く、この金保有量の減少に応じて、中央銀行は通貨の発行を減らすことになるので、デフレが起き、物価が下がる。このため、商品に国際競争力が出て、輸出が伸び、一方、外国品が割高になるため、輸入が減る。国際収支は自動的に改善に向うわけである。

各国が金本位制度をとれば、各国経済が世界経済と有機的に結ばれ、国内物価と国際物価が連動して、自動的に国際経済のバランスもとれる。

金本位制は火の利用と並ぶ人類の英知だ、とたたえる声もあるほどであった。

非常事態が去れば、非常手段をやめるのが当然である。

パリ講和会議のはじまった1919年、アメリカは早々にこの非常手段を廃止し、金本位制に戻った。翌年には、スウェーデン、イギリス、オランダと、金解禁する国が続いた。

1922年(大正11年)ゼノアで開かれた国際会議では、各国とも解禁を急ぎ、金本位に復帰するよう決議が出された。

各国は、この決議に従って、続々と解禁。1928年(昭和3年)のフランスの解禁によって、めぼしい国はほとんど金本位制へと戻った。残っているのは、日本とスペインだけという始末。

(略)

事実、金本位制という安定装置を持たぬ日本経済は、「通貨不安定」にゆさぶられていた。為替相場は、国内外の思惑などによって乱高下を続ける。このため、為替差益を狙う投機筋が暗躍。その一方で、地道に生産や貿易に従事する者は痛手を受け、あるいは先行き不安で立ち往生といった状態。為替差損のため倒産するところもあれば、差損をおそれて活動を縮小する企業もある。経済は低迷を続けるばかりであった。

このため金解禁に活路を求める声が、金融界・産業界にひろがっていた。

日露戦争の戦費なとして借りた2億3000万円の英貨公債が昭和5年いっぱいで期限が来る。償還能力のない日本としては、借り換えをたのむ他ないが、「通貨不安定国」では、それも交渉できない心配があった。

さらに、金解禁には、いまひとつ、秘めた思いがあった。軍部の膨張を抑制することである。

この当時は軍縮の時代だが、しかし、一皮剥げば、その下には、張作霖暗殺事件に見るように、軍部の拡張主義が息づいている。仮に、その軍部がおどり出し、軍事費を増大させようとしても、金本位制である限りは、通貨をむやみ勝手に増発することはできない。資金の面から、自動的にブレーキがかかってしまう。

井上は、親しい日銀の後輩に漏らした。
「いまの陸軍は、心配でならん。できれば、摩擦なしにメカニズムで軍部をチェックできるようにしておきた」と。