2010年6月7日月曜日

井上準之助が金解禁にこだわったのはなぜか

城山三郎「男子の本懐」(新潮文庫) P37
なぜ、それほどに金解禁にこだわるのか。

金解禁とは、金の輸出禁止措置を解除し、金の国外流出を許す、ということである。

もともと世界各国とも、金本位制をとり、金の自由な動きを認めていたが、第一次大戦の勃発により、経済がかつてない混乱に陥った際、先行きの不安に備え、各国はとりあえず金を自国内に温存しようとして、輸出禁止を行った。

日本も、1917年(大正六年)九月、寺内内閣のとき、大蔵省令によって、金輸出を禁止した。非常事態に際しての非常事態であった。

金本位制度の下では、各国とも、紙幣は兌換券であり、中央銀行でいつでも表示の金額に代えることができるし、その金額の金含有量によって各国間の交換比率(為替レート)が法定化される。

ある国で輸出超過が続けば、決済代金として、外国から金が流れこむ。その結果、その国の金の保有量がふえ、これに比例して自動的に通貨が増発される。

このため、今度は、国内物価が騰貴するようになり、輸出は前ほど伸びなくなり逆に外国品の輸入がふえて、輸出入のバランスが回復する。

逆に、入朝続きで、国際収支が赤字のときは、その支払いのため、金が海外へ出て行く、この金保有量の減少に応じて、中央銀行は通貨の発行を減らすことになるので、デフレが起き、物価が下がる。このため、商品に国際競争力が出て、輸出が伸び、一方、外国品が割高になるため、輸入が減る。国際収支は自動的に改善に向うわけである。

各国が金本位制度をとれば、各国経済が世界経済と有機的に結ばれ、国内物価と国際物価が連動して、自動的に国際経済のバランスもとれる。

金本位制は火の利用と並ぶ人類の英知だ、とたたえる声もあるほどであった。

非常事態が去れば、非常手段をやめるのが当然である。

パリ講和会議のはじまった1919年、アメリカは早々にこの非常手段を廃止し、金本位制に戻った。翌年には、スウェーデン、イギリス、オランダと、金解禁する国が続いた。

1922年(大正11年)ゼノアで開かれた国際会議では、各国とも解禁を急ぎ、金本位に復帰するよう決議が出された。

各国は、この決議に従って、続々と解禁。1928年(昭和3年)のフランスの解禁によって、めぼしい国はほとんど金本位制へと戻った。残っているのは、日本とスペインだけという始末。

(略)

事実、金本位制という安定装置を持たぬ日本経済は、「通貨不安定」にゆさぶられていた。為替相場は、国内外の思惑などによって乱高下を続ける。このため、為替差益を狙う投機筋が暗躍。その一方で、地道に生産や貿易に従事する者は痛手を受け、あるいは先行き不安で立ち往生といった状態。為替差損のため倒産するところもあれば、差損をおそれて活動を縮小する企業もある。経済は低迷を続けるばかりであった。

このため金解禁に活路を求める声が、金融界・産業界にひろがっていた。

日露戦争の戦費なとして借りた2億3000万円の英貨公債が昭和5年いっぱいで期限が来る。償還能力のない日本としては、借り換えをたのむ他ないが、「通貨不安定国」では、それも交渉できない心配があった。

さらに、金解禁には、いまひとつ、秘めた思いがあった。軍部の膨張を抑制することである。

この当時は軍縮の時代だが、しかし、一皮剥げば、その下には、張作霖暗殺事件に見るように、軍部の拡張主義が息づいている。仮に、その軍部がおどり出し、軍事費を増大させようとしても、金本位制である限りは、通貨をむやみ勝手に増発することはできない。資金の面から、自動的にブレーキがかかってしまう。

井上は、親しい日銀の後輩に漏らした。
「いまの陸軍は、心配でならん。できれば、摩擦なしにメカニズムで軍部をチェックできるようにしておきた」と。

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