2009年8月2日日曜日

Why is Lou Reed so cool?

北京のオルタナティブロックシーンのNYTの記事以来、どんどん、音楽的青春が蘇ってくる。Fleetwood Mac.や、KIng Crimson、そしてLou Reed。しのぎやすいここ2,3日、Lou Reedばかり聞いている。

父親譲りの洋楽好きにして、ブルース好きの作家花村萬月の、我が青春のロック回想とでもいうような、「俺のロック・ステディ」を読んだ。花村セレクションのディスコグラフィーだけでも価値がある。

花村によるルー・リード。

「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが空中分解してソロになってからのルー・リードは、その天才を遺憾なく発揮する。とりわけ『トランスフォーマーTransformer』は大傑作だ。無駄な曲がない、というアルバムには、なかなかお目にかかれぬものだ。しかも、ルー・リードの音痴さ加減ときたら最高ではないか!ほんと、ビックリマークを100個ぐらい進呈したいくらいに、音痴だ。リズム感が悪い、音程に至ってはよく歌手をやっているなあと感心してしまうくらいに酷い。だが—。それが、いいのだから、ロックという音楽は懐が広いというか、底しれぬというか、いい加減すぎるというか、わけがわからぬというか、際限ないというか、思わず平身低頭してしまいたくなる。

 ロックの主流をなすのが白人である理由だが、それは、じつはブルースなどの黒人音楽の歌唱法の真似からはじまって、コピーの限界に至った白人はある瞬間に、音楽を投げだしてしまったのではないか。どうせ俺は白人だもんね。うまく歌えなくてもいいや。ちゃんと垂れなくてもいいや。好きだからやってるんだもん、文句あるかよ。

ところが音程をはずれてしまうということは、ある瞬間、ラップの語りかけにも似て、ふしぎな力をもつのである。べつにオペラ歌手じゃねえんだから、音がはずれたって問題なし。音がどうこういうよりも、まずは見てくれでしょ。恰好でしょ。ワルそうなのが素敵でしょ。まあ、あれこれ力んで並べあげても負け犬の遠吠えじみてはいるのだが、ロックの不可思議は、この遠吠えが恰好いいものに逆転してしまうことだ。遠吠えだけではない。泥棒もし放題、あちこちから抓んできては自分のもののような顔をして図々しく歌いあげてしまう。こうなると、下手なほうが問題がないというか、オリジナルにそっくり似せることができる技術は、剽窃が目立ってしまうから、逆に足枷になってしまう。」

ルー・リードのヘタウマの魅力をうまく表している。

黒人の豊潤な音楽文化を、白人が縦横に剽窃することから、白人ロックの魅力が増大するのは、ジャズも同じだ。ただそういったコロニアルな性格も含めて、ロック音楽の魅力なのだ。

Reblog this post [with Zemanta]

0 件のコメント: