2011年1月18日火曜日

内田樹 レヴィナスによる鎮魂について

もう何度も書いていることだけれど、哲学者の書ものを読むというのは、徹底的に個人的な仕事である。読む者が、そこに傷つきやすく、壊れやすい、しかし熱く息づいている生身を介在させない限り、智者はその叡智を開示してくれない。

レヴィナスは「語られざること」(non-dit)が読み手に開示されるのはどのような場合かについて、次のような印象深いフレーズを書き残している。

「解釈は本質的にこの懇請を含んでいる。この懇請なしでは言明のテクスチャのうちに内在する『語られざること』(
non-dit)はテクストの重みの下に生き絶え、文字のうちに埋没してしまうだろう。懇請は個人から発する。目を見開き、耳をそばだて、解釈すべき章句を含むエクリチュールの全体に注意を向け、同時に実人生に、都市に、街路に、同じだけの注意を向けるような個人から。懇請は、そのかけがえのなさを通じて、そのつど代替不能の意味を記号から引き剥がすことのできる個人から発する。」(Emmanuel Levinas, L'audela du verset,p136)」

レヴィナスの哲学に対する読者の構えについて、これ以上の言葉は不要であろう。

読者に課されているのは、他のどのような読者もそこから読み出さなかったような読みを「記号から引き剥がす」ことである。そのために、読者はテクストに没入すると同時に「都市に、街路に、他の人々に、同じだけの注意を向ける」ことを求められる。

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