2010年1月3日日曜日

企業福祉の破綻の理由は何か

飯田泰之他「経済成長って何で必要なんだろう?」(光文社)

飯田泰之
「第一に、企業福祉がなくなったというよりもできなくなった理由としては、90年代の労働分配率上昇の問題があるかと思います。社会全体が生み出した価値のうち労働者のものになる部分を労働分配率というんですが、90年代の半ばから後半にかけて、日本の労働分配率がちょっと先進国には例を見ない高さになってしまいました。アバウトにいうと、新たに生み出された価値のうち、3分の2が労働者というものが、だいたい各国の長期的な安定水準なんです。
 しかし一時期の日本は7割以上、一時は7割5分に上がってしまった。これをせめて3分の2程度に戻さないと、企業としてはやっていけない。
 分配率上昇の原因は、売上が減ったのに、正社員の給料を下げられなかった。さらには解雇も困難だったことになります。これをいうと労組への恨み言になっちゃいますけれど、なぜ正社員の待遇を低下させていくという選択肢にならなかったのかと悔やまれます。そして、正社員の待遇を守るために、何かほかのことを大きく犠牲にしなくてはならなかった。その結果が非正規雇用の拡大です。

一元的民主政治の成立条件

山口二郎「政権交代論」(岩波新書)

一元的民主主義と多元的民主主義 P204

憲政の常道を考える際には、どのような型の民主政治を採用するかという基本を明確にしておく必要がある。敢えて単純化すれば、民主政治には一元的民主主義(契約モデル)と多元的民主主義(協調モデル)という二つがある。前者は、政党あるいは首相候補者が国民に政権公約を示し、国民が選挙でそれを選択して、為政者に負託(mandate)を与える。政権を獲得した政党、首相は、国民に約束した政策を最大限実行することによって、民意に基づく政治を実現する。

多元的民主主義は、多様な政党が様々な民意を代表し、それらの政党同士の交渉や妥協によって政治を運営していける。

一元的民主政治の条件

第一に、強力な野党が存在し、常に政権交代の可能性が存在することである。

第二に、そのような野党の活動を支える制度的な土台が必要である。(行政府が持つ膨大な情報に対してアクセスできないことが、野党にとって政策立案の障害となる。)

第三に、与野党の間で政治的競争や討論に関するルールを共有することが必要である。最終的には多数決で物事を決めるのは仕方がないが、多数決に至るまでの過程が重要であるし、多数決で決めてはいけないことがあるという自覚も必要である。

第四に、市民的自由を尊重するという気風を警察・検察や司法に定着させることも、憲政の常道の要素である。

司法権力が特定の政権を前提として、その政権が追求する秩序を擁護するということでは、自由は確保されない。

第五に、公正なメディアが存在し、与野党双方に的確な批判を加え、国民に政治的判断のための情報を提供することがきわめて重要である。

第六に、連立政権の形成と運用に関する常識を打ち立てる必要がある。

ボッピオによる右派、左派の定義

山口二郎「政権交代論」

イタリアの政治哲学者ノルベルト・ボッピオは、一般にフランス革命以後の近代の政治において、この自由と平等が最も基本的な対立軸だることを、歴史的に明らかにしている。革命は、飢え、貧困、失業など基本的な生存の条件を脅かされたことに労働者や農民が怒り、権力に反抗することから始まった。貧民にも人間として生きることを可能にせよという訴えは、生きることに関する平等を主張するものであった。ボッピオは、そのような人間の生命や生活に関する平等志向を「左派」と呼び、それとの対抗上、平等の徹底に消極的な側を「右派」と呼んでいる。(中略)

右派は、自由、特に強者の自由を放任する立場である。

左派と右派の最大の違いは、人間という存在を基本的に同じ価値をもつものと考えるか、そもそも異なったものと考えるかという点に由来している。左派は、人間は等しく人間らしい生活ができるようにすべきだというのが基本的な考え方である。世の中の動きを放置しておいても、自然に平等が実現しない以上、政治の力で社会における不平等拡大の動きを是正すべきだということになる。右派は、人間はすべて能力も個性も異なるという前提でものを考える。だから、経済的な意味でも格差が生じて当然だという考えに至る。

平均値の種類

統計の中心となる平均という概念もさまざまである。

飯田泰之さんの考える技術としての統計学での説明。

算術平均=(X+Y)/2

幾何平均=√XY

調和平均=2/(1/X+1/Y)

二重平均=√(X^2+Y^2)/2

算術平均はテストの得点のように水準に関するデータを求めるのに使われる。

株価が2006年に40%下がり、2007年に50%上昇したときの平均の株価上昇率を求めるときに使われる。

100のn乗根=100^(1/n)

時速と移動距離などの時間あたりの変化について考えるときに調和平均という考えが用いられる。

たとえば、60kmの目的地まで、行きは時速30mで、帰りは時速60kmで走行したときの平均値。

二重平均は標準偏差の計算のときなどに用いられる。

2009年8月2日日曜日

Why is Lou Reed so cool?

北京のオルタナティブロックシーンのNYTの記事以来、どんどん、音楽的青春が蘇ってくる。Fleetwood Mac.や、KIng Crimson、そしてLou Reed。しのぎやすいここ2,3日、Lou Reedばかり聞いている。

父親譲りの洋楽好きにして、ブルース好きの作家花村萬月の、我が青春のロック回想とでもいうような、「俺のロック・ステディ」を読んだ。花村セレクションのディスコグラフィーだけでも価値がある。

花村によるルー・リード。

「ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが空中分解してソロになってからのルー・リードは、その天才を遺憾なく発揮する。とりわけ『トランスフォーマーTransformer』は大傑作だ。無駄な曲がない、というアルバムには、なかなかお目にかかれぬものだ。しかも、ルー・リードの音痴さ加減ときたら最高ではないか!ほんと、ビックリマークを100個ぐらい進呈したいくらいに、音痴だ。リズム感が悪い、音程に至ってはよく歌手をやっているなあと感心してしまうくらいに酷い。だが—。それが、いいのだから、ロックという音楽は懐が広いというか、底しれぬというか、いい加減すぎるというか、わけがわからぬというか、際限ないというか、思わず平身低頭してしまいたくなる。

 ロックの主流をなすのが白人である理由だが、それは、じつはブルースなどの黒人音楽の歌唱法の真似からはじまって、コピーの限界に至った白人はある瞬間に、音楽を投げだしてしまったのではないか。どうせ俺は白人だもんね。うまく歌えなくてもいいや。ちゃんと垂れなくてもいいや。好きだからやってるんだもん、文句あるかよ。

ところが音程をはずれてしまうということは、ある瞬間、ラップの語りかけにも似て、ふしぎな力をもつのである。べつにオペラ歌手じゃねえんだから、音がはずれたって問題なし。音がどうこういうよりも、まずは見てくれでしょ。恰好でしょ。ワルそうなのが素敵でしょ。まあ、あれこれ力んで並べあげても負け犬の遠吠えじみてはいるのだが、ロックの不可思議は、この遠吠えが恰好いいものに逆転してしまうことだ。遠吠えだけではない。泥棒もし放題、あちこちから抓んできては自分のもののような顔をして図々しく歌いあげてしまう。こうなると、下手なほうが問題がないというか、オリジナルにそっくり似せることができる技術は、剽窃が目立ってしまうから、逆に足枷になってしまう。」

ルー・リードのヘタウマの魅力をうまく表している。

黒人の豊潤な音楽文化を、白人が縦横に剽窃することから、白人ロックの魅力が増大するのは、ジャズも同じだ。ただそういったコロニアルな性格も含めて、ロック音楽の魅力なのだ。

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2009年8月1日土曜日

Yahoo Seppuku

週末には、東京から離れる電車に乗ることが多い。1時間近い電車は、読書にも適しているが、なぜか、iPodな時間になってしまう。週末は、さすがに、ウィークディのPCスクリーン漬けのしわよせが来て、眼や頭が疲れているせいもある。

でも、最近気づいたのは、ウィークディの地下鉄は、乗客があまり大声で話す人はいないが、週末のJRは、大声というか、はっきりとした語り口で、まわりの人間が聴きたくもない話をとうとうとする人の数が多いということだった。

聴きたくもないのだけど、やけに明晰な語り口で、耳に入ってくると、読書なんていってられない。だから、iPodということになってしまう。

今日は、行きは文科系ラジオのPodcastのバンドをめぐる回で、帰りは、Velvet Undergrond & Nicoや、Lou ReedのNew Yorkなどを聴きながら。

横須賀線の沿線を眺めていたら、スタイリッシュなルー・リードよりは、なんとなくキッチュなベルベットアンダーグラウンドの方がぴったりだった。

東京に戻ってきて、駅前のカフェで、PCを開いてJason calcaniusの「ヤフー切腹の日」という面白いコラムを読んだ。

昨日は、検索エンジンBingをYahoo!(ヤフー)で全面展開し、設備投資はマイクロソフト負担、広告収入はほとんどヤフーのものという表面的にはかなりおいしいdealのはずなのに、ヤフーの株価が下がり続けているのに対して、MicrosoftのCEOのBallmerが市場はわかっていないという反論をしたのが、日経新聞にまで報じられていた。

でも、このCalcaniusのコラムを読むと、テクノロジー企業としてのヤフーは終わったというのが、市場の意見の最大公約数的なところなのかも知れない。

http://calacanis.com/2009/07/29/yahoo-committed-seppuku-today/

彼のロジックは、マイクロソフトには、ブリリアントな人々が集まっているのだから、彼らが目をつけて、お金を使おうという分野は間違いなく、市場の成長が見込めるところだということだ。ヤフーは、検索という巨大なマーケットが成長する環境を作り出しながら、そのチャンスをGoogleに惜しげもなく与え、キャッチアップのチャンスをすべてみすみす見逃した。こういった姿勢は、当然、働いている人々にも悪影響を与え、Flickrなどの創業者たちも続々とヤフーを去っている。テクノロジーに対する執着心を持っている人ほど、会社を去るという、絵に描いたような悪循環だ。

こんなことをしているのだから、当然、彼らの時代は終わるはずだ。新しいテクノロジーに対するAnimal Spiritを失ったヤフーを市場は冷酷に見捨てたのだ。

検索の歴史は第二章が終わって、第三章が始まったと彼は書いている。

「グーグルの創業までが、第1章。
第2章はグーグルの興隆とヤフーの死。
第三章は、マイクロソフトとグーグルの二強対決。そして間違いなく、第三、第四のプレイヤーが現れるはずだ。」

その意味では、スタートアップ企業には大きなチャンスが開けるだろうと彼は予想している。
攻撃性とイノベーションを忘れたヤフーは路傍に死骸をさらすことになる。

日本人には、アメリカのヤフーの凋落はあまり自覚しにくい。ヤフージャパンはいまだ強力だからだ。ただテクノロジーに対する想いを失った企業は決定的に凋落する。

現状のヤフー本体の苦境が、日本のヤフーにとっても決していいはずはないのだろうが。

2009年7月31日金曜日

Nomad Working

軽く夏休み気分の休暇を取ったら、東京(Tokyo)は一気に気温が下がり、いたって過ごしやすい曇り空になった。

東京駅のオアゾの丸善の洋書部にいったら、ようやくChris AndersonのFreeが入荷されていた。ハードカバーかと思いながら手にとって、他の本を眺めていたら、ちょっと離れた場所に、ペーパーバックが置いてあった。簡便してくれよと、当然そっちにした。

クリス・アンダーソンは、MP3やら、その他のEブック、Kindleなどを通じて、Freeで、新著を配信しようとしているようだが、日本でそれを手に入れるのはなかなか難しい感じだ。

妨害しているのが、いったい誰なのかを技術的に明らかにする気合いも、この暑さではなくなってしまう。

ただ、PCは、雑誌の長めの記事を読んだり、翻訳したり、原稿を書いたりするには最適だが、このくらいの長さの本を読むには、まだインタフェース上無理だ。

佐々木俊尚(Toshinao Sasaki)さんの「仕事をするにはオフィスはいらない」という新書を読んでいると、独立のジャーナリストである佐々木さんの徹底したノマドビジネススタイルに感心した。

実際のオフィスを持ってはいるが、心理的には、そのオフィスに縛られているわけでもないので、ノマド的なビジネススタイルにかなり近いところにいるので、この本の中で書かれているLet's NoteとEモバと携帯と本を1冊持って、気軽にどこでも行くというスタイルに違和感はなかった。

ただ、佐々木さんが、Google Readerを、自宅のPC,ノートPC,iPhoneで連続的に使い分けていく徹底したところには、すごいなあと思う反面、僕はここまで徹底はできないなと思った。

Image by somefool :: ɹǝqɐGoogle iPhone web appsɯ ʍǝɥʇʇɐɯ via Flickr



特に、Google ReaderをiPhoneで読めば、移動などの時間も、記事を読み続けられるというところは、僕的じゃない。

実際、地下鉄では、本。タクシーではiPodと棲み分けしているので、ちょっと、iPhoneで記事やメールを読み続けるという時間配分はできないし、したくない。

やはり、本を読むというスタイルが、知的作業の30%以上は占めるようにしたい。

家に戻って、Velvetundergournd and Nicoのあのウォーホールバナナのアルバムや、Lou ReedのNew YorkをiPodで聴きながら、東京の曇り空を眺めている。

真夏には、曇り空もなかなかHealingだ。

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