2010年1月4日月曜日

バブル崩壊後の自律回復をどのように橋本政権はだいなしにしたか

鈴木淑夫 日本の経済針路(新政権は何をなすべきか) 岩波書店

90年から始まった地価と株価のバブル崩壊は、日本経済に大きな痛手を与えた。設備投資と在庫投資の後退によって、三年間に平均1%弱の成長しか出来ずに低迷していた。しかし、(略)94年度から96年度には、早くも毎年2%台の成長率に回復した。円相場は再び強くなり、90年に8位まで低下したOECD諸国内の一人当たり名目GDPの順位も、93年には2位に上昇し、96年までの3年間は3位を維持していた。

回復を主導したのは、短期のストック調整を終えた設備投資と在庫投資である。また企業収益の回復は、賃金と雇用の回復を通じて雇用者報酬を回復させ、家計消費を大きく回復させた。輸出と輸入の差である純輸出(外需)はむしろマイナスで、成長の足を引っ張っていた。典型的な内需主導型回復である。

この3年間の国内民間主導型の回復が、その後も維持されていたならば、バブルの崩壊によって発生した多額の不良債権・不良債務は、21世紀の初頭までに少しずつ整理されたに違いない。

しかしこの道が政策の失敗によって絶たれたのである。

橋本内閣は、1997年度に超緊縮予算を執行した。消費税の3%から5%への引き上げで5兆円、特別減税の打ち切りで2兆円、医療保険など社会保障負担の引き上げで2兆円、計9兆円の国民負担増加と、四兆円の公共投資削減、合計13兆円のデフレ・インパクトを持った予算である。

その結果、まず家計消費が落ち込み、続いて企業投資が沈んだ。97年度はゼロ成長となり、98年度は更に1.5%のマイナス成長に陥った。

戦後の日本経済で、この年までにマイナス成長に陥った年は、第一次石油ショックで高度成長が終焉した74年度(1990暦年基準GDP)と、バブル崩壊後の93年度(1995暦年基準GDP)の二回だけであったから、97年度予算は、73年秋の第一次石油ショックや90年代初頭のバブル崩壊に匹敵する衝撃を日本経済に与えたのである。いや、それ以上であった。ゼロ成長とマイナス成長が2年間続いたのは、戦後初めての事だからである。

97年度以降、経済が二年続けてゼロ成長とマイナス成長に陥ったため、財政、金融、企業経営は大打撃を受けた。

97年度の財政赤字は、9兆円の国民負担増加と4兆円の公共投資削減にも拘わらず、2兆円しか減らなかった。

これに伴ない、政府債務残高の対GDP比率は急上昇した。1996年の時点では、「粗」比率では、米国、カナダ、ユーロ圏とほとんど遜色のない水準であり、「純」比率では日本が一番低かったので、景気回復を犠牲にしてまで財政再建を急ぐ必要はなかったのである。

(97年から99年にかけての)この2年間の3.4%のマイナス成長により、バブル不況からの立ち直りを進めていた日本の企業は、肝心の本業が大きく悪化した。バブルの崩壊で生まれた不良債務の整理を進めるどころか、本業の方で新たな不良債務が膨らみ始めたのである。債務ばかりではない。94年から96年の3年間の前向きに増やし始めていた設備と雇用も、予期せぬ2年間3.4%の中で過剰となった。

この時生まれた「3つの過剰」(設備、雇用、債務の過剰)は、2004年まで企業経営を圧迫し、経済成長の足を引っ張り続けたのである。

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